一章 春雷
その教室の雰囲気に、マサムネは軽い違和感を感じた。 高等部の中ではナミは浮いた存在だ。 昼休みとはうらはらに、ナミの周囲に人が集まることはない。 それはいつもと変わらぬ光景だ。 だが、ナミを避けるように群れている集団がちらちらとナミに視線を送りながら なにやらひそひそと囁き交わしている。 マサムネは胸の内に妙なよどみを感じた。 マサムネはナミが余り好きではない。 いや、はっきり嫌っていると言った方がいいだろう。 だが、他人がナミを悪し様に言うのを聞くと妙に不愉快な気分になる。 理由はマサムネ自身にも分からない。ただ何となくそう感じるのだ。 ナミを嫌悪する連中が群れて陰口をたたく。 それは日常良くあることなのだが、何故か今日はそれが妙に気になる。 連中の話を聞きたいという衝動に駆られたが、思い止まった。 眉目秀麗にして文武両道のマサムネは、ナミとは違った意味でまた、周囲から浮いた存在だ。 そんなマサムネに気兼ねせずに話しかけられるのは昔からユキ一人だけだった。 マサムネには、特に人を遠ざけようという意志はないのだが、やはりマサムネの 存在感、その鋭利な刃のごとき眼差しは当人の意志に関わらず他人を威圧せずにはおかない。 教師たちや他の大人たちに対してもそれは同様なのだか、どういうわけか ユキに対してだけはそれは無効なようだった。 予鈴が鳴り、教師が入室してくる。 軽く頭を振り、マサムネはナミをその意識から追い出した。それが午後一時のこと。 うららかな日差しの、穏やかな昼下がり。 春眠暁を覚えず。 マサムネの瞼もまた、ともすれば重くなりがち。 しかし彼方の空からは、遠く春雷が轟き始めていた。それが午後三時のこと。 「あーあ、とうとう降ってきちゃったね」 マサムネに寄り添ったユキがぼやく。 放課後。 昼間のうららかな日差しもどこへやら、空は厚い雲に覆われていた。 「嵐になりそうな気配だな。雨足が強まる前に帰宅した方がいい」 言いながらもマサムネはユキを見ていない。 マサムネの視線は開け放たれた教室の扉に向かったまま。 しかしそこに人の姿はない。 「…マサムネ?」 マサムネの眼差しに殺気にも似た気配を認め、ユキは少々驚いた。 確かにマサムネは常日頃から堅い気配をまとう人間だが、ユキの傍らにあって マサムネがここまで露骨な緊迫感を感じさせるのは長い付き合いでも覚えがない。 マサムネはナミと何人かの生徒たちが連れ立って出ていった扉を見ていた。 ナミがクラスメートとともに行動するのは、珍しくはあるが全くないことではない。 いくら個人的な反目があるとはいえ、学園は集団生活の場だ。委員会活動や クラスの用事もある。 だからナミがクラスメートと共に行ったこと、それはいい。 しかし、ナミが彼らに話しかけられたとき、驚き、そして怒りの表情を見せた。 ような気がする。 実際マサムネの立っていた位置はナミのほぼ真後ろに当たり、 その表情が伺えようはずもない。 胸の内にざわざわと虫が蠢く。 その虫がマサムネの内に巣喰ったのは昼休みの終わり、奴等がナミに妙な視線を向けているのに 気付いたときではなかったか? 焦りがじわじわと胸の辺りに這い登る。 「マサムネ!」 ユキの強い声に我に返る。 「どうしたの、マサムネ」 見ればユキが不安そうな眼差しを向けている。 「い、いや。何でもない。帰ろう、ユキ」 なおもいぶかしげな視線を向けるユキを促し、帰り支度を始める。 そう、自分はどうかしている。 別に変わったことがあったわけではない。仮に何かがあったにしても自分に関係の あろう筈もない。 ナミのことなど自分にとっては全くどうでもいいことだ。 ナミが連中に吊し上げを食おうが袋叩きにされようが自分にとっては… 〜もぞり〜 胸の虫が蠢く。一際強く。虫はマサムネの揺れる心を喰らい、更に力を増す。 テキスト学園の寮は学園の敷地に隣接している。 この程度の雨ならば傘なしでもさほど濡れることはあるまい。 そんなことを考えていると、ユキが笑顔で傘を差し出す。 「どうせ天気予報なんて見てないでしょ?マサムネは」 「…一本しかないじゃないか」 更に嬉しそうな顔で、 「いいじゃない、一本あれば!」 そのあまりに屈託のない微笑みに、マサムネもつい微笑を誘われる。 「…まあな」 そのとき、マサムネの背後から遠慮がちな声がかけられた。 「あ、あの。マサムネ先輩…」 振り返ると満面に朱をはき、いっそ哀れを催すほどに緊張を露わにした 面持ちの少年が立っていた。 制服を見れば中等部のもの。どこか見覚えのある顔の気がしたが、中等部に知り合いはない。 思わず怪訝な表情を浮かべたマサムネに、その中等部(であろう)の少年は必死の面持ちで 言葉を続けようとする。 無理もないことだ。マサムネにとっては見知らぬ顔でも、学園内、いやこの県下でマサムネを 知らぬものなどない。特に中等部などの年下の少年たちの間では、マサムネは言の葉にのせる 事さえ憚られるほどの絶対的なカリスマなのだ。 おそらくこの少年も、マサムネに話しかけるために満身の勇気を振り絞っているのだろう。 少年がようやくのことでかすれた声を絞り出した。 「あ。あの、ナミ先輩が… あ、あの…」 なるほど、この少年はナミの取り巻きの一人なのだろう。道理で見覚えがあるはずだ。 「あの、ナミ先輩が、け、健さんに… あ、あの」 少年の話はさっぱり要領をえない。さすがのマサムネにも少年の意図がまるで見えない。 と、そのとき 〜ぞわり〜 眠っていた虫が再び蠢く。より一層強く。 …何故ナミの取り巻きの少年がマサムネに声をかける? ナミの取り巻きならばマサムネとナミが反目し合っていることなど先刻承知の筈。 肥大した虫が胸の内を這い回る。 「…落ち着いて話せ」 刃の如き眼差しに、少年は一層ひるんだが、震える足を踏みしめ懸命に話し出す。 「あ、あの、こ、高等部の人たちがやってきて…あ、あの、怖い顔をしてたんです。 そ、それで健さんを連れていったんです…」 健は中等部ではカリスマ的な存在であり、またナミの一の子分といった存在でもあった。 マサムネとは特に面識はない。 「それで、それとナミにどういう関係がある?」 マサムネの眼光に射竦められ、今にも泣き出しそうだ。 「あ、あの、それで、様子が変だったから、あ、後をつけてみたんです。 そ、そしたら健さん、波止場の方に連れて行かれて… 誰かに知らせなきゃって思ったんです。そしたら、今度は帰ってくる途中で今度はナミ先輩が 来るのが見えたんです。高等部の人たちと一緒でした。 で、でもナミ先輩怖い顔してて、他の人たちはニヤニヤしてて、あ、あの 友達には見えなかったんです!」 少年は一息に話し終えるとその場にへたりこんだ。全身の力を使い果たしたのだろう。 …ギリ マサムネの奥歯が軋んだ。 何が起こったのか、説明されずとも分かる。 クズ共の考えそうなことだ。 ああ見えてもナミは面倒見のいい性格だ。 可愛がっている健が連れ出されたとあれば、罠だとは百も承知で行くだろう。 そこで自分がどんな目に遭うのか、それさえも承知で。 腸が煮える。血が逆流する。鼓動が鼓膜を切り裂く。 マサムネは踵を返し、雷鳴の轟き始めた屋外に刃の視線を突き刺した。 その刃を遮る人影がある。 「行っちゃ駄目だ!マサムネ!」 ユキは思い詰めた表情をしていた。それは今まで一度も見たことのない顔だった。 「マサムネが行くことなんてない!先生にでも警察にでも言えばいいじゃないか!」 …それでは間に合わないかもしれない。 ナミが、あの生意気なナミが、大嫌いなナミが、殴られる、罵られる、辱められる。 俺の知らないところで! 俺以外の奴に!! それだけは、何があろうとそれだけは許せない。 ナミには、ナミにだけは!! 「…済まない、ユキ」 カタチになった言葉は、ただそれだけ。 自分が理解らない。ユキ、ユキに対する裏切りかもしれない。 けれど、瞼に映るのはナミの顔だけ。生意気な、澄まし顔のナミだけ。 気が付けばマサムネは嵐の中に駆け出していた。 全身を、細い眼鏡を大粒の雨がたたく。 ユキの哀願の声が背中にすがる。 止まれない、脚を緩めることができない。 ナミが待っている。生意気な、大嫌いなナミが、この俺だけを待っている。 …暮れ始めた街並みを、マサムネは駆ける。 ナミに向かって、ただナミのために。 天を貫くは蒼き雷。  地を切り裂くは、白銀の夜叉。
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