二章 紅蓮
気が付けば街は夜の中。 闇を裂いて夜叉が往く。 金色の瞳に宿すは紅蓮の炎。 燃えているのは愛か憎しみか。 もう何も分からない。何も考えられない。 マサムネを駆り立てるのはただ一つ 憎いナミの面影のみ。 風に潮の香りが交じり出す。目指す相手は近い。 酷使に耐えかねた肉体が軋みを上げる、熱い呼気が咽を灼く。 雨粒が視界を浸食する。雷鳴が耳に突き刺さる。 そんなものはどうでもいい、 灼け付く胸の痛みに較べれば、そんなものは取るに足らない。 あの角を曲がれば、目指す場所はすぐそこだ。 もうすぐだ、今すぐ俺が行くから、待っていてくれ。 ナミ…  ナミ! そこにある人影は二十ばかりだったか? 幾つかの顔が驚きを露わにして振り返る。 マサムネが求めているのはそんなものではない。 それを求めて、マサムネの視線が狂おしく彷徨う。 ナミ、俺だ。マサムネだ。 もう大丈夫だ。俺が来たから。 俺がおまえを守るから。おまえを、他の誰にもおまえを傷つけさせたりしないから… 木偶人形たちが何か言っている。 聞こえない、何を言ってるのか分からない。 ナミがいない。ナミが…     いた。 木偶人形たちの足下にうずくまる影がある。 マサムネはぼんやりそれを眺めていた。 思考が上手く巡らない。あれは一体なんだろう? そもそも自分はここで一体何をしているのだろう? あの紅い色は何だろう?紅、紅、紅… 突如として視界が紅一色に染まった。 全身の血液が沸騰し、瞬時に蒸発した。 今やマサムネの体内に流れるのは真紅の電流。紅い激情。 嵐の波止場。 天に風が吠え、地に海が吠え、 天地の狭間に、夜叉が吠える。 何時の間にか、嵐は止んでいた。 地を焼き尽くした紅い暴風と共に。 壊れて動かなくなった木偶人形たちの間に夜叉が立ち竦んでいた。 「…よう」 朱に染まった顔を歪めてナミが笑った。 「案外早かったな」 心底おかしそうにクスリと笑う。 「あ…」 声が出ない。言葉が空転する。 胸にあふれる想いが多すぎて、上手く咽を通らない。 制服は胸の辺りから大きく引き裂かれている。 顔ばかりではない。露わになった素肌のそこかしこに血が滲んでいる。 マサムネの付けたものではない、醜い傷が全身を覆っている。 「ああ…」 視界がぼやける。 傷つけられた。汚されてしまった。 ナミの身体と、マサムネの心と。 膝が震える。 地を焼き尽くした夜叉が、迷い子のように立ち竦む。 「おい」 ナミの呼びかけに我に返る。 「…悪いがその辺に健が転がっているはずだ」 言われて辺りを見回す。居た。 ドラム缶に凭れるようにして、手足を縛られ、猿ぐつわをかまされた健が転がっていた。 再びナミを見る。 「俺のことはいい。まず健をどうにかしてやってくれ」 促され、後ろ髪を引かれる想いでナミの元を離れる。 何が起こったのか、一部始終を見ていたはずの健にさえ理解できなかった。 健を浚った連中は、それをダシにナミを呼び出し暴行を加えた。 健に危害を加えると脅されたナミは、無抵抗でそれを受け入れた。 そこにマサムネは現れた。たった一人で… 二十人以上いたはずだ。中には木刀や鉄パイプ、金属バットを持っている連中までいた。 それら全てが動かなくなるまで、いくらの時間もかからなっかた気がする。 連中が何故次々に動かなくなるのか、見ていてさっぱり分からなかった。 意味不明の怒声をあげて襲いかかる連中が、黒い影と交差すると次の瞬間には もう動かなくなっている。 黒い影が歩み寄ってくる。手足の戒めを解いてくれる。 ようやく我に返り、猿ぐつわをむしり取る。 「ナミ先輩!」 あわてて健は駆け出した。 おぼつかない足取りのままマサムネが続く。 取り乱す健に対してもやはりナミは笑ったままだ。 「…いいから、おまえは先に帰れ」 「そんな!ナミ先輩を置いてなんて!」 「俺の面倒は、ほら」 マサムネに向けて顎をしゃくる。 「そこの馬鹿が、みてくれるとよ」 顔を向けた健に対してぎこちなく肯いてみせる。 まだ迷う表情を見せていたが、二人の間に割り込みがたい気配を感じたのだろう。 何度も振り返りながら、健はその場を後にした。 ナミとマサムネ、そして動かない木偶人形たちが残された。 マサムネはやはり動けない そんなマサムネを見て、ナミは再び苦笑する。 「気が利かねえな、肩ぐらい貸せよ」 慌てて肩を差し入れ、ナミを立たせる。 ナミが顔をしかめ、マサムネの身体がびくっと震えた。 「大したことはねえさ。それより…」 ナミが周囲を見渡す 「一応、手加減してるんだろ?」 さも当然のように言う。凶器を手にした二十人以上の相手を無傷で倒して見せたことなど 何ら驚くべき事ではないと、その表情が言っている。 当然だ。相手はマサムネだ。ナミの憎しみと愛情をその一身に受ける、 それを受け止め得る男なのだから… 軽く肯いて見せ、マサムネはナミを抱いて歩き出す。 愛しさと、憎しみと、切なさと不安。 その全てが今、マサムネの腕の中にある。 欠けていたピースがようやく埋まる。 ようやく、己の半身を取り戻した。 見上げれば夜空に、星の輝きが戻っていた。 寮にたどり着いたナミは、マサムネの治療を拒んだ。 傷ついた己を見られたくないのだろう。 ナミの考えは手に取るように分かる。 自分ならどう思うか、それだけ考えればいいのだから。 ナミの部屋を後にしたマサムネは、ようやく静穏を取り戻していた。 失わずに済んだ。ナミを失わずに済んだ。 安堵が胸に満ちる。 暗い廊下を歩き、己の部屋にたどり着く。 マサムネの足が止まった。 部屋の前に人影があった。 その人影は全く生気を感じさせない。 怪訝な表情を浮かべたマサムネにその屍が目線を向ける。 マサムネの身体が凍り付く。 冥い、闇より冥い視線がマサムネを呪縛する。 ユキが立っていた。 しかしそれはマサムネの知っているユキではなかった。 夜の帳が降りる。 闇が全てを包み込む。 無明の夜が始まる…
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