Bye Bye
「戻るよ」  パソコンの電源を落としながらカズヤがそう言うと、サクシはベッドに寝そ べったまま、どこへとも聞かずに 「そろそろ言い出すんじゃねえかと思ってたよ」と笑った。 「なんだかんだ言って、結局好きなんだからな」 「まあ、ね」  カズヤはデスクから立ち上がり、自分のベッドに腰を下ろした。  消灯の過ぎた寄宿舎の中は、しんと静まりかえっていて、まるで世界に二人 だけが存在しているような錯覚を覚える。 「オレは戻らない」  あまりにも予測と同じ反応に、カズヤが思わず笑いをもらす。 「そう言うと思ったよ」 「あの学園は面倒なことが多すぎる。邪魔が多すぎて、やりたいことの半分も できやしねえ」  二人がイギリスにある学校に留学してきてから、もう一年になる。  最初は三ヶ月の短期留学の予定だったが、過分に干渉されない気楽さと、 相棒がいつもそばにいる居心地のよさで、三ヶ月が半年になり、半年が一年 に延びてしまったのだ。  いっそこのまま、と思う気持ちもないではなかったが、テキスト学園の友人 たちからの近況を知らせるメールを読んでいると、どうしてもテキスト学園で やり残したことがあるような気がして、帰りたい気持ちが強くなる。  もともとはっきりと学園に興味がなくなったから出て行く、と言ったサクシ とは違って、違う世界を知るのも面白いだろうという程度の理由でサクシと一 緒に来たカズヤだったから、これまで戻る気にならなかったことのほうが、 不思議なくらいなのかもしれなかった。 「だから、お前が行っちまってもオレはここに残る」 「そっか」  知り合ってからこれまで、ほとんど離れたことのないサクシとの、これが 実質的な別れを意味すると判っていても、カズヤの気持ちは不思議なほど落ち 着いていた。  サクシがベッドから滑り降りて、カズヤの前に立った。 「ま、オレとお前は、どこにいたって、オレとお前だから」  カズヤの身体が柔らかくベッドに倒されて、サクシの影がそれに重なる。 「――そうだといいね」  カズヤの、ほんのわずかに含みを持たせた言葉に、サクシは意外そうに眉を あげて、カズヤの顔を見た。 「少しは心配になったかな?」 「わざとかよ?」 「さあ、それはどうかな」  くすくすと笑い出したカズヤにサクシは大げさに眉をしかめ、 「そういうヤツはこうしてやる!」  左手でカズヤの両腕を押さえて、わき腹をくすぐり始めた。 「うわっ、サクシ! それ反則」  カズヤは笑いながら身を捩ってサクシを押しのけようとしたが、ちょうど腰 のあたりに跨られていて、少しの身動きも取れない。 「参ったか?」  にやにやしながらサクシが言う。カズヤは涙を浮かべて首を振った。 「ああもう、腹筋が痛いよ。筋肉痛になったらどうしてくれる」  起きあがったカズヤが、まだ半分笑いながらそう言うと、 「それは鍛え方が足りないからだな。やっぱ、もうちょっと腹筋を鍛えてやろ うか?」  サクシがまたカズヤの腰に手を回す。その腕を取って、 「今度はくすぐらずに、ね」  シーズンオフの空港は出張らしいビジネスマンで溢れていて、気を抜くと 感傷的になりそうなカズヤの気持ちを中和した。  あれからサクシと帰国の話はしていない。話せば辛い結果になることを二人 ともが感じていたから。  だから、日本へ帰る荷造りもサクシのいない時間を見計らったし、サクシも 徐々に少なくなっていくカズヤの荷物を見ても何も言わなかった。  最後に部屋を出て行くとき、サクシはコンピュータの画面に向かったまま、 「見送りには行かねえから」とだけ言った。 「子供じゃないんだから、見送りなんて要らないよ。――それじゃ」  カズヤもそれだけをやっと言葉にして、もうずいぶんなじんでいた寄宿舎を 後にしてきた。 「サクシ」  チェックインのために並んでいる人々を手すりの手前で眺めながら、小さく 呟いてみる。  もしかすると、もう二度と呼びかけないかもしれない恋人の名前。 「――なんだよ。もうオレが恋しいってか?」  聞きなれた声にカズヤが慌てて振り向くと、 「こういうときに現れるのってお約束スギかもしんねえけどさ」  照れくさそうに視線をそらすサクシがいた。 「……誰が恋しいって? そんなわけないだろ」 「ふうん。そんなこと言うわけ。せっかく来てやったのに」  本気でつまらなそうな顔をしてサクシが鼻を鳴らす。 「来てくれなんて言ってないじゃないか。サクシのほうこそ、ぼくが恋しくて 追っかけて来たんだろ? なんなら一緒に帰るか?」 「るせーよ。帰るわけねえだろ」 「あ、そう。それならいいよ、別に。サクシなんて一生日本に帰ってこなくても」  カズヤのその言葉に、サクシは口の中で何かを呟いた。 「なに? 聞こえない」 「……誰も絶対に帰らないとは言ってねえぞ」  その不服のありそうな口調にカズヤが思わず吹き出す。 「笑うな。オレは帰りたいと思ったらいつでも帰るし、帰りたくないと思ったら 帰らないんだ。そう言っただけだ」 「はいはい、ぼくはサクシが帰りたい気分になるのをせいぜい祈っとくよ。 祈らなくても、すぐだとは思うけどね」 「もう行かないと」 「ああ」 「待ってるよ。みんなも」  サクシは返事をしないまま手を振った。  カズヤは振りかえることはしないで、まっすぐに歩き出す。自分が戻って いく、懐かしい世界を思い浮かべながら。
*注意*          サクシさんが一度帰還していることは分かっています。
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