2002
12




12月1日:中日新聞WEBより

 やはや、もう12月になってしまいましたな。
今日はろくに勉強もせず『マタイ受難曲』を聴き狂っておりました。レビューは、いずれまた。
 カタい文章ばかりだとしんどいと思いますので今日はすこし軽めの更新で。
 ちょっと前に某大手サイトで紹介されていたのですが、不気味なおばあちゃんロボットが栃木に存在するそうです。

「三味線さばき、人間そっくり」(中日新聞WEB) 

 写真怖すぎです。お茶噴出しそうになりますた。
 ちょっとだけ実物見てみたいかも。やっぱいいです。はい。 
 ついでにその「塚田歴史伝説館」のホームページも。

塚田歴史伝説館
 
 …変なロボットばかり置いているようです。。。
 
 バーチャルネット狸・とらぬたぬきは「塚田歴史伝説館」を応援しています。

 

 


12月2日:永野潤「カオスの解放 ―『風の谷のナウシカ』の構造--」

 はいどうも。今日は勉強するためにわざわざ学校の図書館まで出向いたのですが、卒論の題材に向き合う気力が湧かなかったので逃亡してこんなのを読んでおりました。まったくイカンことです。更新が終わったらこんどこそ勉強に入ります。

 この論文は彼のホームページ上で公開されているもので、気軽に閲覧することができます。というわけでまずはそちらからどうぞ(彼の授業に出ていた学生が、このサイトからコピペして、レポートとして提出した、という笑い話もあるようです)。

 HIMANISM
 
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6142/index.html

 カルガモを観察したり喰ったりしている日記もオモシロイです。ジャズコンサートなんかも開いたりしているみたいですね。多才なひとだ。で本職は大学で非常勤の先生をしているとか。一般の本屋で手に入るようなタイプの仕事としては、金井淑子・細谷実編『身体のエシックス/ポリティクス―倫理学とフェミニズムの交叉―』(ナカニシヤ出版、2002年)に「違和としての身体」を載せており、読んだ知人に感想を求めたところ「大変に興味深い」とのことです。副題として「岡崎京子とサルトル」という刺激的な文句が副えられており、激しく読書欲を揺り動かされております。そのうちぜひ読みたいですね。

 さてこの論文、副題を見れば明らかなように宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(以下、『ナウシカ』と表記します)を論じるものです。そしてその方法は、アニメ版の『ナウシカ』と漫画版の『ナウシカ』の構造の差異に着目し、その差異を明確にするため山口昌男の人類学や、上野千鶴子のコスモス・ノモス・カオス三元論を適用するというものです。
 そこから出てくる結論は非常に目覚しいもので、読んでいて思わず膝を叩きたくなる。僕も一応アニメ版と漫画版の両方を体験しているのだけれども、漫画版の方の感想は「なんかストーリがゴチャゴチャしててよくわかんねぇや」というものでした。特に漫画版の終盤では、ナウシカが怒りに任せてなんでもかんでもぶっ壊してる、くらいにしか見えなかったし、ラストシーンなんかは「良く判らんけどどうやら丸く収まったらしい」程度の理解しかできませんでした。ところがこの論文をよんで「ははあ、そうだったのか」と納得することしきり。解釈とはかくあるべし。
 また、それぞれの節のタイトル(「1.ノモスの強化」「2.コスモスへの移行」「3.カオスの解放」)の付け方も見事で、内容を理解してから見直すと「なるほど!」と頷いてしまう。

 以下にざっとこの論文の論趣を紹介しよう(その前にいちおう言っておくと、『ナウシカ』はアニメ版と漫画版では分量も内容も大きく異なる)。

*************
  アニメ版の『ナウシカ』は、内部=秩序と外部=混沌という対立という構造をもっている。そこでナウシカその人の位置付けは、内部(風の谷)に侵入しようとする外部(腐海、王蟲)と交感し、また食い止めるものとして、ある。このような構造を考慮すると、アニメ版の『ナウシカ』はナウシカの死と復活という出来事を通して、ナウシカを「王」として誕生させる誕生劇であったと解釈される。

 しかし漫画版の『ナウシカ』中盤は、アニメ版に見られるような「内部⇔外部」という対立にはもはや留まらない。ここにみられるのは、ノモス(世俗秩序、風の谷)・カオス(混沌)・コスモス(ノモスを正当化する、規範的次元)という三元の対立である。そしてナウシカはいまや共同体(ノモス、風の谷、世俗秩序)のためには戦うのではなく、より高貴な秩序(コスモス)のために闘う。このことを、永野は「共同体の秩序(ノモス)を離れ、自然の秩序(コスモス)へと渡」るのであり、「風の谷の「王」としての役割を捨て、腐海の「神」としての姿をあらわす」と表現している。

 だがさらに漫画版『ナウシカ』はその終盤において、「神」としてナウシカを定着させることをさえ超えていこうとする。「墓所の主」と呼ばれる(「火の七日間戦争」後の世界を回復するべく建築された)「神」のごとき巨大な生命体コンピュータを、巨神兵によって破壊してしまうのだ。世界の復活を妨げる「悪」としてのナウシカ。ナウシカは腐海を穢れから解放するのではなく、穢れそのまま腐海=自然を解放するのである。

 このようなナウシカの「王」→「神」→「解放者」という役割の変遷は、長い期間(12年!)を経ながら刊行された、宮崎の『ナウシカ』を描きながらの迷いを反映している。少なくともアニメ版『ナウシカ』の「王」としてのナウシカ像は漫画版のもつ「コスモス・ノモス・カオス」という三元論からみるならば明らかに単純なものであるのだ…。
**************

 ただ、あえてケチをつけるならば、「結び」をもっと派手に書いて欲しかった、ということでしょうか。議論が読者を強くひきつけるものであり、また『ナウシカ』の内部にさまざまなパラドクスや転回点を示す、刺激的なものであるだけに、「結び」の軽さは肩すかしの感が否めない。「『ナウシカ』を単なる英雄待望論だとかエコロジーとかと同一視するのは間違いだ」、なんて遠慮せずに、もっとじゃんじゃんやりたい放題に書いて欲しかったす。
 ともあれ、『ナウシカ』をアニメ版と漫画版の両方を経験しているものならば(経験していなくてもイイですが)、非常に楽しめる論文です。みんな、読もうぜ!

永野潤「カオスの解放 ――『風の谷のナウシカ』の構造――」Web上にて公開

補足:論文ではアニメ版と漫画版の『ナウシカ』の発表年がとくに明記されていなかったので僕はちょっと混乱した。ので、以下にざっと発表年を挙げておこう。参考にしていただければ幸いです。

1982.「風の谷のナウシカ 単行本第1巻発売
1983.「風の谷のナウシカ」単行本第2巻発売
1984. 映画「風の谷のナウシカ」公開
1984.「風の谷のナウシカ」単行本第3巻発売
1987.「風の谷のナウシカ」単行本第4巻発売
1991.「風の谷のナウシカ」単行本第5巻発売
大体こんな感じらしいです(全七巻で、残り二巻の発売年は良くわかりませんでしたが、94年に完結とのことです)。

 


12月4日:洛西一周「紙」(フリーソフト)

 はこの日記、「紙」というソフトを手に入れてから突如書き始めたものなのです。前々から「レビュー日記みたいなのを書きたい」とは思っていたのですが、なんとなくWORDに保存するのはいやだし、それというのもWORDで書く文章は「原稿」というイメージが強くてなんかしんどかったのです。

 ところがこの「紙」というソフト、驚くほど気軽に書けるじゃありませんか。めちゃめちゃ手軽なんです。こっちの文章を途中まで書いて、気が乗らなくなったらぱっと別の文章を書き始めて、なんてのが煩雑な操作なしにサクサクできてしまう。こら便利だ。

 このソフトの最大の特徴は、書いた文章を入力する片っ端から保存していくという機能にあります。つまり、「本日は晴天なり」という文章をかくとき、「本日は」とうってリターンキーを押すと自動的に保存。「晴天なり」とうって変換してリターンキーを押すと自動的に保存。BSキーやDELキーで削除してもまた自動的に保存。そういうわけで、例えば文章書いてる途中でフリーズ→再起動→データ消失→そこでぶち切れですよ、というような悲劇を避けられるのです。そのほかに、ブラウザで表示中のページを画像まるごとワンタッチで取り込むことができたりします。

 データの消失を避けられるというのも良いんですが、それ以上にこの手軽さがたまらんです。レスポンスが速く、ほとんど落書き感覚でスラスラ書ける。こりゃちょっとした快楽ですな。ウヒヒヒヒ。いや失敬。
 デザインもマイクロソフトみたいなダサさがなく、シンプルかつスタイリッシュです。サウンドまでお洒落です。

 とまあ、そんなこんなでPCで文章を書くことの多い人にイチオシのソフトです。是非お試しあれ。ちなみに作者はWindowsソフト界に風穴を開けんと、未踏の峰を目指す若きプログラマらしい。かっこいいぞコンチクショウ!

洛西一周「紙」、Web上で公開 「紙」のホームページ(こちらでダウンロードできます)

 


12月5日:神戸新聞WEB、他より

 邪気味なのでちょいと軽めの更新で。地元のニュースなどを幾つかご紹介。

 女性専用車両内で痴漢の男逮捕 JR神戸線(神戸新聞WEB NEWS
 だそうです。あきまへんな。それにしても階段降りてすぐのところに女性専用車両を設置するのはちょっと問題あるんじゃないでしょうか。狼としても狙い易いだろうし(何の話だ)。

  新開地商店街に新ゲート 愛称は「BIG MAN」(神戸新聞WEB NEWS)
 最初何のオブジェだかわかりませんでしたよ。「ルビンの壷」と同じ原理ですね。新開地にはもう二年くらい行ってないです。。。

 新メニューは「おっぱい鍋」 赤穂・坂越の海の駅(神戸新聞WEB NEWS)
 ( ゚д゚)ポカーン …。
 でも、美味しそうですね。

 干ばつの豪州、女性数百人が裸で雨ごいのダンスを計画(Yahoo!ニュース 海外)
 (;゚д゚)ハダカ …。
 とりあえず豪州なのかオーストリアなのかはっきりしてもらわないと非常に困る。

 予算別終電後プラン 男子編(@nifty
 ひとりで肉っております。これぞ男子のあるべき姿。

 ギャラリー沸くか…競泳用水着にミレーやゴッホ ミズノ(asahi.com)
 沸かないと思うし、趣味悪いとも思います。

 はあ楽チン。
 

 


12月8日:大江健三郎「飼育」

 まりにも美しい小説。大江の作品群のなかではどちらかというと異質な気もするし、ごく初期の作品であるけれど、僕としてはこれを(現時点では)彼の一つの頂点としたい。読むたびに涎を垂らしてしまうくらいこの作品が好きだ。美しく、過剰で、淫らで、しかも清らかであり、そして残酷。

 「飼育」は大江健三郎がまだデビューして間もないころに書き溜めた短編集『死者の奢り・飼育』に収められている。このころの大江はまだ大学生だった(23歳、1957年)。そういう若さの中で書かれたこの作品集のなかにあって、「飼育」は他に比べることも出来ないほどの豊穣さと美しさを誇っている。これと同系統の小説に『芽むしり仔撃ち』を挙げ、『芽むしり仔撃ち』の方を上とする見方もあるようだが、僕にはその理由はいまいち判らない。「飼育」の、淫らとさえ言える豪奢な文体や、次々と繰り出されて尽きることのないみずみずしいイメージは、彼の他の作品においてさえも決して見ることのできないものだ(『芽むしり〜』も勿論すぐれた小説ではあるけど)。

 物語の筋はごく単純で、戦時中の四国の村に墜落した一人の黒人兵と村の少年(主人公)たちとの交流や、些細なすれ違いから黒人兵が殺されるに至るまでが描かれている。だけどもストーリーは、後半の不条理な展開を除けばさして重要ではなく、むしろ斬新な比喩を巧みに生かした文章の素晴らしさに注目しなくてはならない。

 「僕らの古代めいた水浴の日の夕暮れ、夕立が激しく谷間を霧の中へとじこめ、夜がふけても降りやまなかった。翌朝、僕と弟と兎口は降り続く雨を避けて倉庫の壁ぞいに食物を運んだ。食事のあと、暗い地下倉で黒人兵は膝をかかえこみ低く歌をうたった。僕らは明り取りからはねこんで来る雨のしぶきを延ばした指にうけながら、黒人兵の歌う声のひろがり、その海のように重おもしく荘重な歌で洗い流された。そして黒人兵が歌い終わると、もう明りとりから雨はしぶきこんでこないのだった。僕らはたえまなく笑っている黒人兵の腕を引いて広場に出た。谷あいを霧が急速に晴れて行き、樹木は雨滴を葉の茂りいっぱいに吸いこんで厚ぼったく雛のようにふくらんでいた。風がおこると樹木は小きざみに身ぶるいして濡れた葉や雨滴をはねちらし、小さく瞬間的な虹を作り、そこを蝉が飛びたつ。僕らは嵐のような蝉の鳴き声と回復しはじめる暑気の中で、地下倉の降り口の台石に腰掛けたまま、長い間、濡れた樹皮の匂う空気を吸った。」

 どうです、美しい文章だとは思いませんか?全編にわたってこのようなイメージがぎっちりと詰め込まれています。躍動し、夏の太陽に照り輝く身体。少年達が駆けまわる豊かで清冽な自然。そして、もはや少年では居られなくなってしまった主人公の、暗く冷えた世界。また、この時期の大江に顕著な肉欲的な要素も、うねるような文体でこの上なく贅沢に描かれています。後の『我らの時代』での性への嫌悪感とたいへん対照的だ。

 ともあれ、この後の大江健三郎はかくも豪奢で美しい小説を書くことがなくなってしまった。政治的な話題や、知的障碍をもって生まれてきた彼の息子などが主題として前面に出てくる。例えば『洪水はわが魂に及び』(1973年)はその知的障碍の息子を中心にすえた小説で、全体的に美しい感じはするが、だがしかしそれはどちらかといえば無理に美化されたものとして僕には感じられた。彼は「もう子供ではなかった」のであろう。

 「飼育」のような作品が書かれなくなってしまったのは残念だけど、仕方がない。けれども「飼育」はそれ一作だけで僕を狂喜させるほどの異常な魅力に満ちた作品だ。

大江健三郎「飼育」(『死者の奢り・飼育』所収)新潮文庫、2000年

 


12月9日:私事ですが

 金魚が死んでしまいました。昨日の夜までは一生懸命おしりをふりふり泳いでいたのですが、今朝起きてみると腹を上にして浮かんでいるじゃありませんか。以前にもこういう事があって、そのときは塩水にしばらくつけておいたら息をふきかえしたのだけれども、今日は残念ながらそのまま帰らぬ魚となってしまいました。

 この金魚は、今年(2002年)の春、夙川というところに花見に行った際拾ってきたものなのです。屋台の金魚すくいで掬った金魚を誰かが放したのでしょう、黒くて小さい出目金が川の流れに逆らって必死で泳いでいました。今にも流されそうなそれに心を痛めて僕らはそれを拾って家に連れ帰ったのでした(ちなみにこの時川に入ったせいか熱を出した)。それから今日に至る今まで八ヶ月ほどのあいだ、時に餌をやり忘れたり、時に酒を飲ませたりしつつ、たいへん可愛がってきました。

 ここ1ヶ月ほど、急に寒くなってからのことですが、一気に元気がなくなってしまい、心配していました。噂によると金魚も冬眠をするとのことだったけど、とうとう死んでしまった。さきほど昼過ぎに近所の川に流してきました。拾われるときも別れるときも流れに押されて。さようなら、誰ともも交わることなく死んでしまった娘。


12月11日:島田荘司、『網走発遥かなり』

 駅の出張古本屋で購入、読了。僕は島田荘司という推理小説家が大好きだ。小手先の技ではなく、命を賭けた一撃、それが彼のミステリ(推理小説)の最大の魅力だ。高校の時、たまたま読んだ『斜め屋敷の犯罪』(これは彼のデビューニ作目にあたる)という作品に激しいショックを受けて、それが彼の小説との出会いだった。細かいところをつつけば幾らでも問題がある(たとえば、こんな建物じっさいにあるわけないやん、とか)けれども、メインの巨大なトリックにすべてを賭ける彼の情熱に僕はすっかりやられてしまった。それで彼の重要な作品はほとんど読んでしまったのだけど、たまに古本屋などで読んでいない短編集なんかを見つけるとついつい買ってしまう。そんなふうにして手に入れた一冊。

 本作は解説によると84年から87年にかけて連載された連作短編小説とのこと。収められた4つの短編は相互に関連をもっており、一応一貫したテーマで書かれている。各章はそれぞれ、それなりの仕掛けが施してあって、なかなか楽しませてくれる。個人的には二章「化石の街」が好きだ。この章はこんな書き出しで始まっている。

「私の書斎の窓から、暗い庭のヒマラヤ杉が見える。その枝がさっきから揺れている。揺れ続けている。ピエロが揺すっているのだ。/ヒマラヤ杉のとげとげしい葉の間から、白い顔が見え隠れする。夜目にも、それが白く毒々しい厚化粧をしたピエロの顔だと解る。」

 凄い書き出しだとは思いませんか?狂気すれすれの奇想。ミステリの基本は謎を解明することにあるけれども、島田の幾つかの作品には、狂気を解明するものが主題になっているものがある。そして一見すると狂気に見えた行動が、実は深い理由を持っていたことが明らかにされ、喜劇が一転して悲劇へと変貌する。
 この短編もピエロの不可解で狂気じみた行動を説明するのが一つの主題になっている。ただし、まだデビューして間もないころの作品なので、後年方法論として確立する「冒頭の幻想的な謎と後半の鮮やかな解決」という姿勢が成立しきっておらず、別の主題に話題をずらしてしまい、いまいち中途半端な印象が残ってしまう。

 全体的な感想をいうと、それなりに面白いんだけど浅いかなあ、というのが本音だ。まあ短編集だから軽いのはしょうがない。島田ミステリの醍醐味を味わいたいひとは別の作品を読みましょう。

島田荘司『網走発遥かなり』、講談社文庫、1990年

 

 


12月15日:日清食品、「GooTa 炙焼叉焼麺」

 んで朝っぱらからカップラーメンなんぞを食べているのだ、俺は。
 それはまあ良しとして、某雑誌をパラパラと読んでいたら、このカップラーメンの宣伝に出くわして試食してみたくなったのです。どうも関東地方では10月の終わりころからすでに販売していたとのことなので、一ヶ月以上僕は人より情報が遅れているわけだ。テレビがないとどうしてもこうなってしまう。まあ仕方ない。

 このラーメン、「GooTa(=具多)」という名称が示すように、どっさり具が入っており、これまでのカップ麺とは一線を画する。僕が今回買った「炙焼叉焼麺」には煮玉子と厚切りチャーシューが入っている。これを宣伝で見た僕は「乾燥食品で煮玉子かよ!」とたまげたのだが、ワクワクしながらフタを開けてみると中にレトルトパウチが入ってるじゃないですか。なんだ、レトルトですか。家の外じゃ作れませんね。しかしこれは今までありそうでなかったアイデアではあるなあ。

 食べた感想は「旨い!」の一言です。僕はあまりカップ麺食べない方だけど、しばらく食べてないうちにこんなに進化してたなんて。スープもこってり、麺も歯ごたえ充分。チャーシューに少しレトルトくささが目立つけど、とろとろしてて美味しい。煮玉子もシコシコしてます。カップじゃなしにちゃんと丼にいれて出されたら、僕みたいに先入観の強い人間だったら本物のラーメンと言われてもだまされてしまうんじゃないでしょうか。旨い、これ旨いよ、かあさん!みたいな。

 ところで、このカップ麺のフタをみてみるとJASマークが印刷されているのだが、その表示が「上級」になっている。他のカップ麺を調べてみると見たかぎりでは全部「標準」になっている。どういうことだこれは。「上級」とは随分お偉くなったもんだな、GooTaよ。
 というわけでちょっと「JAS 上級」で検索してみたところ、以下のサイトなどで説明されてました。

 http://www.city.sapporo.jp/shohi/kurashi/kurashi2002/sep/spe.html
 
「ハムの場合、JASには特級、上級、標準があり、「特級」「上級」は肉の赤身の水分が72%以下、「標準」は75%以下です。特級、上級には結着材料は使えませんが、標準では1%以下です。そのほか、香味・肉質・色沢などに基準があり、特級と上級は厳しい基準です。なお、特級と上級の違いは赤肉中の粗タンパク質含量や品位などによります。
 ソーセージ(ウインナ、フランクフルト、ボロニア)の「特級」は豚および牛のひき肉だけで作られたもの、「上級」は豚および牛のひき肉に結着材料を加えたもの、「標準」は畜肉など(副原料として魚肉含む)のひき肉に結着材料を加えたものとなっています。このほか、チルドハンバーグも同じように品質によって上級や標準などの表示があり、また、熟成ハム類では、特別な生産方法によるものには「特定JAS」マークがつけられています。」

だそうです。ということは、このラーメンの「JAS上級」はチャーシューに適用されているんでしょうか。しかしチャーシューはどのカテゴリに分類されるんでしょう。ここまで調べて急激にめんどくさくなってきました。知っているひと、居たら教えてください。

参考にどうぞ
日清食品のホームページの中の、「GooTa」シリーズの商品説明 
http://www.nissinfoods.co.jp/news/detail.htm?id=517&ym=2002-10

ALL ABOUT JAPAN/フード・ドリンク「日清食品『具多』(Goota)」
http://allabout.co.jp/gourmet/junkfood/closeup/CU20021114A/

十勝新津製麺ファン倶楽部
「十勝新津製麺」のファン倶楽部らしいんですが、GooTaの評価も載っています。すげぇデータ量です。
http://www.hi-ho.ne.jp/morimori/index.htm

 


12月16日:リチャード・リンクレイター(監督ほか)『ウェイキング・ライフ』

 かい一日でしたね、今日は。この切羽詰った時期に映画を観に行ってきました。ホント馬鹿ですよね。この映画、結構期待してワクワクしながら観に行ったのですが、イマイチでした。ウムム。『2001年宇宙への旅』の再来とまで言われているそうですが、『2001年〜』を途中で投げ出したぼくが見るべき作品ではないのかもしれませんね。

 本作は手法がとても変わっていて、カメラで録画した映像をコンピュータやらなにやらで加工(ペンキのような着色)している。実際に映画を観ていただければわかるのだけど、通常の映画では固定した位置に留まるさまざまな事物がふわふわゆらゆら、「まるで夢の世界のように」揺れ動いている。そうです、この映画は「夢」と「死」について語っているのです。誰でも一度は考えたことのある、「我々の生は実は一瞬の夢だったら」という疑問を投げかけている。

 たしかに映像の効果は面白いんだけど、次から次へと登場する人物たちが皆「死とは何か」「進化とは何か」「夢とは何か」とかうんざりするくらい熱い口調で語っておる。ひとによってはこういうのを観て「哲学的だ!」とか感動するのかもしれないけど、こんなやつらに哲学を教えられるくらいだったら映画なんて観ずに野矢茂樹や永井均でも読んでた方が良いじゃありませんか。こんな手の込んだテクニックまで使って映画にする意義もわかんないよう。トリップ体験ができるほどでもないし。映画の大半を占めるのが哲学風の会話で、観ててかなり疲れました。しかも小賢しい議論の結果に解答が出るわけでもない。ちゃんとした哲学書ならまったく別の次元まで我々を連れて行ってくれますよう。
 あとは純粋に技術的な問題で、字幕がスゲー読みづらかった。字幕に集中すると今度は映像が楽しめない。もうちょい工夫があってもよいのでは。

 とまあ、不満だらけなのですが、ときおりハッとさせられるシーンもあったのも確かです。例えば終盤、主人公が公園でたたずみ、おばあちゃんたちが絵を描いているシーンがあるのですが、ゴッホを思わせるようなたいへん生命的な色彩が鮮やかでした。あとは冒頭、タイトルが提示される直前のシーン、彗星を見つめる少年の目がうつろになり、身体が徐々に重力を失う、そこにテーマ曲が流れ込んでくる。その場面の美しさに思わず襟を正してしまいました(結局その緊張感は持続しませんでしたが)。あと、映画のキーワードになっている「目覚めるんだ」というのがありますが、その台詞を喋る人のクレジットをみたところ、「なるほどね」とちょっと思いました。そちらは劇場でご確認ください。

 ところで、使われている音楽がなかなか良かったです。「なんかピアソラみたいだな…」とか思いました。公式サイトの説明によるとグローヴァー・ギルというアコーディオン奏者率いる「トスカ・タンゴ・オーケストラ」なる楽団らしい。タンゴの激しさ・荒々しさこそないものの、ピアソラの曲が持つクールさに通じるものを感じました。きっと何らかの影響を受けているのでしょうね。ちょびっと気になりました。どなたか、彼の作品やサントラを持っている人おられましたら感想など教えてくださいまし。

 まあ総評といたしましては、イマイチ、とだけ。公式サイトのレビュー(滝本誠による)にもロクなことが書いてなかったので、これはやっぱダメ映画なんじゃないかと。けれども、一緒にいった人間に映画の感想を求めたところ、「面白かった」だそうです。印象はひとそれぞれなんですね。

 んでせっかく三宮まで出たから、てことでルミナリエも見てきました。うーん、なんだかイマイチでしたね。もうどうでもよくなってしまって。遠くから見るのはキレイなんですが。というか単に僕の感性が鈍って感動できなくなってきただけなのかもしれません。映画といい、ルミナリエといい、僕の評価が間違っているのかもしれまっしぇん。

 ジュンク堂にて野坂昭如『エロ事師』(新潮文庫)、酒井邦ヨシ『言語の脳科学』(中公新書)を購入。

『ウェイキング・ライフ』
2001 年 アメリカ
出演:監督・脚本・撮影:リチャード・リンクレイター
配給:20世紀フォックス映画

参考にどうぞ
『ウェイキング・ライフ』公式サイト
http://www.foxjapan.com/movies/wakinglife/

 


12月24日

00ヒットありがとうございます。それなのに放置しまくりです。ごめんなさい。

というわけで、最近知ったオススメなサイトを一件だけご紹介。

FLOWERS by Katinka Matson

アーティスト・Katinka Matsonの作品を閲覧できるサイト(英語)です。
写真を一切使わずにスキャナで直接に取り込んだ花の映像/イマージュ。
水中で沈黙しているかのような静けさと、独特の光線によるあでやかさ。
うむむ、素晴らしい。花ってこんなにきれいだったんですね。
なぜか北野武の『DOLLS』を思い出しました。観たいなあ。観てないんだよなあ。


12月26日

 ンビニで『ジョジョの奇妙な冒険』の最新刊を立ち読みしてきますた。スンゲー!面白かったです。前章(ゴールド・エクスペリエンス)は最後のほうとか、かなり未消化な感じが残ったけれど、今度のは伏線も張られていたりするみたい。といっても物語の大部分を読んでいないので本当に筋が通っているのかわかりませんが。
 こまかいところをつっこめばキリがない漫画だけど、あの連載期間にしてあのテンション、キレッぷり、おっそろしい。しかも連載当初のころの近影写真と比べても年をとっている感じが全然しない。荒木飛呂彦は本当に人間なんでしょうか。続刊が楽しみです。

 


 

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