11月26日、アストル・ピアソラ『ピアソラの挑戦 リベルタンゴの時代』

 よいよピアソラの登場だ。ぼくはピアソラが大好きだ。必ずしもこのアルバムは彼の代表作とはいえないけど、まあいちばん最近に買ったのがこれだから仕方ない。ピアソラ(Astor Piazzolla)という人物はタンゴの作曲家であり演奏家です。1992年に亡くなりました。ということはそのときぼくはまだ十二歳、小学生で当然ピアソラなんて知る由もなかった。ぼくが彼の音楽を知るのは大学に入ってからで、いわゆるピアソラ・ブームからの後追いファンだ。

 タンゴというと、なんだかダサいイメージが付きまとうけど、ぼくは彼の曲に出会ってからまったくそのイメージをぶっ壊されてしまった。「リベルタンゴ」(「自由なlibert」、と当時かれがバーで口説いた「リベルタ」という女性の名をかけていう噂がある)という有名な曲をギター一本で演奏している人がいて(この人についてはまた後日書きたい。いまをときめく押尾コータローです)、ぼくもそれを真似しようと思ったのがそもそもの出会いのきっかけだった。ギターを弾きながら、ふと、「原曲はどう演奏されてるんだろう」と思って『ライブ・イン・ウィーン』というアルバムを購入してみたところ、その信じがたい躍動感に圧倒されてしまった。とくにこのアルバムに納められている「リベルタンゴ」は、スアレス・パスのヴァイオリンといい、ピアソラのバンドネオンといい、生命感がすばらしい。パブロ・シーグレルのピアノの不協和音的なオブリガートも絶妙だ(もちろんギターやベースもいい仕事してます)。

 メインの旋律の一回目は聞いていて不安になるくらい、安定が悪い。それを崩れる寸前のところでベースがうまく纏め上げる。それが、二回目の旋律が始まる時にはメンバー全体が一丸となって、まったく異なる強度へと加速する。このときのスリル、音楽的快感は、とてもじゃないが言葉では言い表わせるもんではない。アコースティックの楽器だからこそできる演奏だ。そしてこの五人だからこそできる演奏だ。ひと時、ウィスキーの宣伝でチェリストのヨー・ヨー・マがこの曲を演奏していたが、彼の演奏は音色こそ豊かだけど、緊張感やスリルとは程遠いものだった。ピアソラが演奏するタンゴはため息が出るほど美しく官能的であり、それと同時に、危険なエネルギーに満ちた荒あらしい音楽でもあるのだ。タンゴ!
 まあ、そんなこんなでピアソラの音楽にノックアウトされたわけなのでした。

 さて、今回購入したこの『ピアソラの挑戦』に収録されているのは『リベルタンゴ』『リュミエール』『オランピア77』『ビジュージャ』という70年代後半の四つのアルバムで、ピアソラの歴史の中では、祖国を離れてイタリアでの活動→アルゼンチンでの五重奏団の復活・・・という時代に当たる。順番に見ていこう。
 『リベルタンゴ』は先にも紹介した名曲「リベルタンゴ」を初収録した作品だ。しかし『ピアソラ タンゴの名盤を聴く』(立風書房)で著者の一人が言っているように、実に気まずいアルバムです。というのも、ここでピアソラはドラムやシンセサイザーといった楽器を起用しており、これがたいへんカッコ悪い。九重奏団のアルバムやオペリータ『ブエノスアイレスのマリア』を聴いた時にもパーカッションに不自然な印象を憶えたものだが、その比ではない。ピアソラのタンゴに打楽器は合わないのだ。メンバーもイタリア人ばかりでなんとなくタンゴらしくない。ぼくはこのアルバムを海賊版でも持っており、それを最初聴いたときはデモトラックかなんかを引っ張り出してきたのではないかと思ったくらいだが、そうではなかったことが判明した。ちなみに映画『タンゴレッスン』で引用されている「リベルタンゴ」はこれと同じバージョンでしょう。うーん、あまりきちんと聴こうという気が湧きません。。。(長くなってしまったの
次回に続く) 

 


11月29日、アストル・ピアソラ『ピアソラの挑戦 リベルタンゴの時代』(続き)

 て前回の続きです。『リュミエール』は前半後半に分かれていて、前半は映画『リュミエール』のために書かれた音楽、後半はピアソラの先輩であるバンドネオン奏者アニバル・トロイロの死に捧げられた音楽です。ぼくとしてはこれら『リュミエール』『トロイロ組曲』が購入の最大のきっかけです。

 前半『リュミエール』はタイトルのセンスがイイですな。「孤独」「死」「光」「逃避」という題がそれぞれつけられています。タイトルといい静謐な曲調といい、晩年のバンドネオンと弦楽のための五重奏曲『ファイブ・タンゴセンセーション』を想いおこさせる作品。「孤独」や「死」はほの暗い詩情が魅力的だ。「光」はピアソラにはめずらしいタイプの明るい曲。ピアノの爽やかなフレーズが印象的。でもアルバム全体の印象はやはり薄いかな。
 後半『トロイロ組曲』では最初の「バンドネオン」という曲で、ピアソラの即興バンドネオン・ソロが堪能できる。これは嬉しいですよ。ソロの途中、なつかしい雰囲気のメロディーがふっと流れてくるが、これがトロイロの曲からの引用だろうか。こういうのを聴くとバンドネオンが欲しくなってしまう。良い楽器だなあ。

 『オランピア77』はさきの『リベルタンゴ』アルバムからの曲を中心にしたライブアルバム。というわけでやはりドラムが入っています。ライブということもあってスタジオ版の『リベルタンゴ』に比べて勢いがある。でも「リベルタンゴ」は80年代の五重奏団のピアソラから入った人間にとってはやはり苦しいですね。ピアソラ自身のバンドネオンはたいへん安定していて聴き応えがあります。あと、このアルバムには彼の代表曲「アディオス・ノニーノ」が収録されているんだけども、これのアレンジがたいへん良い。フルートの慎ましく柔らかい音色とバンドネオンの強い音が絡み合いながら旋律を歌っていくのが気持ち良いです。ピアソラのカデンツァも絶好調だ。ドラムも不自然さなしに嵌まりこみ、それどころか後半では音楽を熱く壮大に盛り上げている。最後の曲「ビオレンタンゴ」もスタジオに比べて格段に迫力を増している。アツイ!

 『ビジュージャ』は、アルゼンチンに戻ったピアソラが再結成した五重奏団のアルバム。ライナーノーツで斎藤充正氏が書いているとおり、そののち同じ五重奏団で録音される『タンゴ:ゼロ・アワー』と『ラ・カモーラ』という二つの極上作品に比べても遜色のない内容だ。でも、できるならそれら二つのアルバムと同じようにキップ・ハンランのプロデュースなら本当に言うことなかったんだけどなあ。。。
 このアルバムでは一曲目「ビジュージャ」での中間部のバイオリンとバンドネオンの感情を炸裂させるようなソロがまず素晴らしい。二人は後のライブ盤『AA印の悲しみ』での同曲の演奏でも唸ってしまうほど美しいソロを披露してくれている。重量感のあるベースも魅力的です(ソロの間ギターは何をしているんでしょうか。『AA印の・・・』では絶妙なフレーズが入っていましたが)。「エスクアロ」はスアレス・パスのバイオリンをメインに据えた、勢いのあるスピーディな曲。スタジオ版ということでスリル感こそはすくないものの、安定した演奏を聴かせてくれる。アルバム最後の「マレハディージャ」は暗く沈溺するような曲。「天使のミロンガ」などの耽美的な雰囲気とは少し違うタイプのミロンガです。前半、中音域で奏でられるバイオリンのカンタービレが素晴らしい。弦と弓の擦れ合う音が、酒に疲労した女性のかすれ声のように官能的だ。後半の倦怠感に満ちた展開もピアソラのタンゴならでは。遠い昔の性交を思い出させるような音楽だ。ウィスキーを飲ませてもらえませんか。
 『ピアソラの挑戦』というアルバム全体からみるとこの『ビジュージャ』がいちばん好きですね。

・・・となんだか散漫なレビューになってしまった。こういうのはあまり良くないことだ。全体的な評価をいうと、ピアソラのファンは何も言わずに買っておけ。ただし素人にはおすすめできない。そういうこってす。 

 アストル・ピアソラ『ピアソラの挑戦 〜リベルタンゴの時代』KING RECORDS(KICP876-7)、2002

 


11月30日、『少林サッカー』

 レンタルビデオ屋に行ったら並んでいたので借りてみました。少林拳法の達人達がサッカーに挑戦するおバカな映画。ワイヤーアクションをバンバン使って表現される主人公達の動きは超人的過ぎて、もう笑うしかありません。良くも悪くもアメリカナイズされた作品だなと思いました。

 良質のエンターテイメントらしく、ふんだんに引用が用いられている。例えば、練習中に監督がふと水の入ったコップに目をやると、「ズシン、ズシン」という地響きとともに水面に波紋が立っている…。これは実は「鉄の足」を持つ主人公がシュートの練習に壁打ちをしている反響が伝わったもの。恐らく「ジュラシック・パーク」の恐竜の登場シーンに使われていた手法を引用しているんでしょうね。他には、シュートされたボールに、あまりの加速と空気摩擦で火がつき、その火が虎の姿になる、というもの。『キャプテン翼』が向こうで読まれているのかどうか知りませんが、たぶん日向君の「タイガーシュート」なんかを引用してるんじゃないでしょうか。

 さて、このように能天気でバカバカしい映画ではあるんだけれども、素直に笑ってばかりはいられない問題提起を提示している。それは伝統文化の衰退と近代化(とりわけアメリカ化)という、我々日本人もしばしば意識せずにはいられない問題だ。

 物語の前半は主人公がサッカーチームのメンバーを集めるため、今は都会でそれぞれの生活を送っている少林の仲間たちを探しに行くことにあてられている。しかし仲間たちは実業家になったり、バーで下働きをさせられていたり、あるいは失業していたり、あるいは病気(?)で肥満体になりポテトチップスをかじりつづけていたり…と、みな拳法からかけ離れた(ある種アメリカ的な)生活を送っている。彼らの全員が、そして街全体の人々が少林という拳法のことを忘れかけている。少林だけを「伝統」と見なすのは無理があるかもしれないが、いずれにせよ伝統はもはや死につつあるものとして描かれているわけだ。

 映画の後半ではこのように死につつあった小林=伝統がサッカーという土台で活躍し、次第に復権していく様が描かれている。なによりも特徴的なのは主人公たちのチーム「小林」が決勝戦で対峙する相手チーム「デビル」が、「アメリカ製の薬」でドーピングされていることだ。また、「デビル」の監督がいかにも実業家ふうの暮らしぶり(ゴルフやら真っ白のスーツやら)をしているのも、きわめて中国的な小林拳法との対比を鋭くしている。

 観客の期待通り、チーム「小林」は苦戦しつつも「デビル」を打ち倒し、その効果もあってか街中が「小林ブーム」に染まる…、というところで映画は終わる。そこでいちおう、アメリカの文化をやっつけて中国の文化が復活したのだ、とみなすことは出来る。けれども、そのような自国の文化の勝利を描く方法がそもそもアメリカ的な手法であることは逆説的だ。ワイヤーアクションやCGはもちろん、ちょっとしたカメラワークなどの演出方法や、音楽の用い方もハリウッド的だ。

 あるいは、「小林拳法という伝統文化は近代化された中国のなかで、新しいかたちで息づくことができる」、というメッセージとしてみなすこともできる。じじつ、映画のラストでは都会のなかで小林拳法をする人々が映されている。しかしここでもまた、表現方法じたいはひどく誇張されていて、人がピョンピョン空を飛び回ったり、刀を振り回していたり、とパロディ的な色合いがつよい。

 けっきょく映画のなかで小林=伝統は復活したのだろうか?チーム小林の活躍とアメリカ=デビルの敗退を描く手法そのものが実はアメリカ=ハリウッドのものであり、小林ブームがあくまで「ブーム」であってパロディの域を出ないものであるとするならば、「伝統の復活」自体がそもそも不可能であって、伝統は陳腐な観光地化の運命を免れ得ないという強烈な皮肉になっているのかもしれない。ラストシーンで主人公が見せる微笑とも苦笑ともとれる表情はそれを示唆しているように思われるのだ。

 …と、余計な考察を展開してみたけれども、映画そのものははじめにも書いたとおり、おバカで肩の力を抜いて楽しめる作品です。単純に笑いたい、というときにうってつけの快作。おすすめですよう。          

『小林サッカー』、チャウ・シンチー(監督・脚本・主演)、2002年(ビデオのデータとか発売元とかよくわかんないです。ごめんなさい)
 参考にどうぞ:『小林サッカー』公式サイト 

 


11月30日、『声とギターの出会い』(コンサート)、ローラン・マルタン(作曲)

 うも、とらぬたぬきです。今日はちょっとしたコンサートを見てきました。タダだからどうせ大したものじゃないんだろうとタカをくくっていたので告知してませんでしたが、どうも東京あたりでの公演は3000円くらい取るらしい立派なコンサートでした。ごめんなさい。こういうのはフェアじゃないですね。これからは包み隠さず報告します。なぜこんなに謝っているかというと、実は神戸大学の六甲ホールで行なわれたからです。行こうと思えば行けた皆さん、すんまへん。

 とは言ったものの、果たして今回のコンサートが3000円払ったお客を満足させえたか?と問うならばその答えは渋いものになる。現代音楽の、しかもギター曲のものとなると、パフォーマンスは低くなる。早速レビューしていきましょう。早くも演奏の内容を忘れつつありますので(オイ)。

 コンサートは一部と二部に分かれており、第一部はギターデュオのみの演奏。曲目は、
  1.セレナード(アンドレ・ジョリヴェ作曲)
  2.トランスフィギュール(成田和子作曲)
  3.パケルンツ(フェリックス・イバロント作曲)、というもの。 
「知らない曲・作曲家ばかりだ」と思ったあなた、大丈夫です。僕も知らないものばかりです(本当に大丈夫なのか?)。印象に残った部分だけちょいと書いておくと、まず一曲目、始まったばかりのときは演奏も安定せず、それに加えて音楽も現代特有の奇妙な曲調でかなり不安になりました。しかしこの曲の第三楽章(別の楽章かもしれません、以下同様)ではたいへん美しい音楽を聴かせてくれた。女性奏者の方が半音階的なフレーズをシングル・ノートでつらつらと弾くのにあわせて男性奏者がハーモニクスの和音を実にきれいに響かせたのである。それまでのアヴァンギャルドな曲調のなかでこの数秒間だけは特別に浮きあがって印象的だった。

 説明の順序がメチャクチャになってしまっていますが、述べておくと、今日の公演で使われたギターは四分の一音を出すために作られたギターでした。ギターを演奏したことのあるひとなら分かってもらえると思いますが、普通のギターはフレットが半音(二分の一音)ごとに付けられています。今日のギターは四分の一音ですから、簡単に考えるとフレットの数が倍になっているわけですね。弾いたことありませんが、演奏するのはかなり難しいと思われます。

 二曲目は会場にも同席していた成田和子さんの作品。無学なぼくはこの人のこともやはり知りませんでしたが、経歴をみると、パリ国立高等音楽院卒業、あちこちの作曲コンクールで入賞しており、現在は同志社女子大の音楽家の教授(!)をしておられる優秀な方だそうだ。まだ三十台前半に見えたけど教授なのか…。きれいなひとでしたよ。それはさておき、手元に残っているメモをみると、第一楽章にかんしては特に感想が持てなかったみたいです。第二楽章は特徴的な演奏を積極的に取り入れており、鬼のようなトレモロから無数に音が積み重なっていくようなアルペジオへの展開が興味ぶかい、とのことです。第三楽章は実はこのコンサートの最大の見せ場だったのではないかと思うほど激しい盛り上がりを見せてくれました。この曲はリズムパターンがたいへん凝っており、最初はタツツタツツタツという3-3-2だったのが二拍子になったり、複雑になったり…と聴くものを飽きさせません。リズムだけでなく旋律も速く複雑で、終盤ギタリスト二人のユニゾンは単純にカッコいいと思いました。巧いよなあこの人たち。三曲目(パケルンツ)はボケーとしてたら終わってました。あれれ。

 ムダに長くなってまいりました。いけないことです。書くほうも読むほうも疲れてしまう。駆け足で行きましょう。第二部はまず「珍しい鳥」というフランシスコ・リュック(どういう人なのかは知りません)の作品で始まりした。この曲はまあまあ聴き応えありました。
 そしてこの公演の名目上のメイン、ローラン・マルタン作曲「一所懸命/a tout force」が続いて演奏されました。西脇順三郎と宮沢賢治の詩(歌/朗読)に二台の四分音ギターの伴奏がついた音楽です。一応引用された作品の題を書いておくと、西脇「雨」、宮沢「座敷童子」「原体剣舞連」「カーバイト倉庫」(僕は「座敷童子」以外読んだことありませんでした)。

 この「一所懸命」という作品、はたして成功したのでしょうか。ぼくが聞いたかぎりでは、田原順子の美しく朗々と響く日本語の発声とギターデュオの現代音楽的な伴奏はかなりちぐはぐなものでした。詩の強調点と音楽のアクセントが必ずしも一致していなかったし(リズムの不一致)、そもそも伴奏音楽じたいが詩の内容からはいささか懸け離れていたように思われました。コンサートタイトルが「出会い」だけに、これはちとマズイのではないかと。もちろん全部が悪かったのではなくて、「座敷童子」の後半や「原体剣舞連」では音楽の奇妙さやおどろおどろしさが、それぞれ詩の雰囲気を高めているように感じた。特に「座敷童子」では、「この文章はこういうふうにも解釈できるのか」と、ちょっと感心しました。
 この曲の初演のためにローラン・マルタンさんは来日し、このコンサートのツアーに付き添っているのですが、今日の演奏は彼としても演奏者達のパフォーマンスが気に入らなかったらしく、終わった時はかなり不機嫌でした(第一部と第二部のはじめではニコニコしてた)。たぶん上手く演奏すればもっとちがったふうにも聴こえたのでしょう。

 「一所懸命」とは曲のタイトルとしてはへんてこなものだ。それについて作曲者自身の短い解説がついていたので引用して締めくくろう(フランス語のアクサンていうんですか?あれがでないです。悪しからず。訳が間違っていたらどうぞご指摘を)。

L'expression "Issyokennmei / a tout force" est tres courante, presque triviale. Elle vient d'une loi ancienne d'atrribution de domaines:
   <<(a)un-lieu-//-associee-(une)vie>>

「一所懸命(=全力で)」という表現はたいへん日常的で、ほとんど通俗的とさえいえます。 この言葉は、領地への帰属についての次のような古い規範から由来しているのです。
「一ツ所(ニ)//(一ツ)命ヲ懸ケルベシ」

『声とギターの出会い』
声:田原順子
ギター:ヴィム・ホーグヴェルフ、カロリーヌ・ドリューム
ローラン・マルタン(作曲)、成田和子(作曲)
2002年11月30日、於神戸大学六甲ホール

参考にどうぞ
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/villakj/jp-CV-Martin.htmlローラン・マルタンについて
http://www.ifjtokyo.or.jp/culture/musique_j.html「声とギターの出会い」について(つうか下のフルート・ピアノ・バンドネオンのピアソラトリオが激しく気になります。東京はいいよなあ(涙))

 


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