11月24日、ロックマン5、カプコン

 いや、べつにロックマンで遊びたかったわけじゃないんです。これも研究の一環かと思って(嘘)。恐らく僕と同世代の人間にとってはかなり親しみのあるゲームなんじゃないかな、と思う。ところでこれ、考えれば考えるほど不思議な設定のゲームですね。

 多くのアクションゲームと同じように、やる気があるんだかないんだか判らないような敵どもを蹴散らしてボスを目指すんだけど、ボスにたどりつくための道のり、あれは一体なんなのでしょうか。常用通路なんでしょうかね。ボスは大抵もっとも奥まったところにいるわけだから、ねぐらだか何だか知りませんが、そこにボス自身がたどりつくためにいちいち穴越えをしたりハシゴを登ったり降りたりしなきゃならんのは相当不便ですよ。しかもあんな穴ぐらに奴等は閉じこもっているんだからロックマンはわざわざ倒しに出向かずに、さっさとドクター・ワイリーを叩きに直行すればいいんですよ。

 まあ、それはくだらない揚げ足とりだけれども、他にも面白い点を含んでいる。「スーパーマリオ」シリーズや「グーニーズ」や「ワギャンランド」、あるいは「スパルタンX」などの(変なのしか思いつかないや)ソフトは共通している点があって、どれもこれも「お姫さま」かそれに準ずる女性を助け出しに行くのが当面の目的として設定されていたわけなのだった。他の多くの昔のゲームにも共通して言えると思うのだが、かつてのゲームは「報酬としての女性」という観点が確かにあった(気がする)。しょぼしょぼのグラフィックの女性がゴールした主人公に口づけし、ハートマークがぽわわんと浮かぶのを我々は何とはなしに脱力しながら眺めなかっただろうか。

 では「ロックマン」シリーズはどうか。これはドクター・ライトという天才的科学者を、その才能を妬み悪の道へと利用しようと目論むドクター・ワイリーから救い出しに行くというお話である。ドクター・ライトは白いヒゲをモジャモジャに生やしたジジイだ。救出したからといってオイシイ目にあうわけではない。「ロックマン」の世界には、スーパーファミコンに移植される辺りまで女性キャラという要素がまったく欠けていたのだ(*)。それはそれは完全にマッチョな世界だったのである。敵のボス達は(ロボットだけど)みな男。主人公も味方も敵もみな男。ついでに言えばプレイヤーも男。そして毎回毎回お決まりのパターンでロックマンに追い詰められ、逃走しては懲りずにライト博士を攫いに現われるワイリー博士。彼にはなんとなくホモセクシャルな香りすらするのです(多分彼はライト博士よりもロックマンのことを愛していたに違いない)。。。

 時期的にいうと、「ロックマン」が登場してくるのは「スーパーマリオ」などに比べると大分あとになる。ではこのあいだに、「ロックマン」のようなマッチョなゲームが流行りだすような、なにかパラダイムの変動があったのだろうか。残念だけれども少ない材料ではこの大きな問いに答えることはできない。 ただ、僕らが「ロックマン3」をプレイしていたときに感じていた、なんともいいがたいストイシズムはこんなところから来ていたのじゃなかろうか…と思ったりしたわけです。

PS:ちなみにロックマンがライト博士を救いに行くのは、同時に「自分探し」ということも含んでいるように思われる。第一にライト博士はロックマンの生みの親だ。そして彼は道中さまざまな試練を潜り抜けて様々な能力を身に付けていくのだから。

(*)…… 「ロックマン4」あたりから補助的キャラが登場し始める。彼らは男性的とは言いにくいが、女性的とも言いがたい。彼らが表象しているのは「弟」「少年」といったイメージであろう。