11月21日、川田順造「夜」(『曠野から』中公文庫(廃版)1976、所収)

 僕の高校の倫理の先生は変な人だった。変人という意味で変だったのではない。小学校に入って以来、僕らの頭にすっかり根をはってしまった、下らない思考法や倫理観に揺さぶりをかけるという意味で、他の教師たちとくらべると、かなり奇異な人だったのだ。その二年後、僕が大学で学ぶことになる学問へと導いたのも恐らくは彼の影響が強かったのだと思う。

 そんな先生が(小論文の)授業の一環で配布したプリントのなかの一枚に、川田順造の「夜」というタイトルの、この短いエッセイが含まれていたのだった。当時の僕は本なんて(推理小説はアホみたいに読みまくったけど)まったく読まなかったので、このエッセイの価値を知ることはついぞなかった(目は通したはずなんだが憶えてもいない)。

 それが最近部屋の掃除をしているときにふっと出てきて、読むにつれてその美しさに完全に魅了されてしまった。川田順造というひとはアフリカ、特に西アフリカの未開民族の研究でよく知られている。それ以上に、レヴィ=ストロースの諸著作の翻訳のほうが有名かも知れない。他にはリトル・ワールドや国立民族博物館(万博公園付近)などの中心的人物でもあるようだ。

 僕はこの文章に魅せられて、勢いで他の著作も買ってしまった。『アフリカの心とかたち』と、武満徹との往復書簡の『音・ことば・人間』だ。どちらも秀作なのでいずれ紹介したい。彼の文章は非常にあたたかくて、そして教養に溢れている。あまり好きな言葉ではないけど「人柄が表れている」というやつか。この『曠野から』という本は川田順造が1972年頃西アフリカのオートヴォルタという地方に研究滞在中、書き付けたもの。鶏を飼ったり、寄生虫につかれたり、伝承を取材しにあちこち走り回ったり、ダム酒に酔っ払ったり…と非常に多彩な日々が描かれている。

さて野暮な解説はこれで止めにして、エッセイの最終段落の文章を引用(部分)するに留めておこう(著作権大丈夫かな?)。

   「…眠りは覚醒の、かりそめの休息にすぎないのだろうか。それとも、光が闇のまたたきであるように、覚醒も、はてしない眠りのひろがりのなかで、人間や豚やいそぎんちゃくなどの生命に、切れぎれに訪れてきた、よろこびと苦悩のあらわになる瞬間なのであろうか。愛するもの同士抱き眠っても、眠りのなかで愛はたしかめられず、孤独もまた存在しないのは、眠りが、そしてより完全な形での死が、個をこえた連続への復帰にほかならないからなのであろうか……。」